瞑想は何のためにするのですか?

「瞑想」といっても様々な瞑想法が世の中に溢れているし、効果があると感じたもの、そうでないものがあると思います。瞑想やってみたけど、よくわからない、という方は、まず根本的な瞑想の意味や目的がわかっていなかったり、その方法が間違っているのかもしれません。今回は、数年前に「月読寺」住職である小池龍之介さんが講話された「瞑想」についての話をまとめたいと思います。

心と感情の関係性

住職曰く、『心』というのは感情だけではなく、思考(想像、妄想、迷い)、記憶、感覚、などを含む、それはそれは計り知れない広大な宇宙のようなもので、感情などはその中のほんの一部。しかしながら、人はその喜怒哀楽という、たまたま表に出てきた小さな感情に振り回されて、それがあたかも『自分の心』『自分そのもの』だと思い込んでいるのだそうです。

心の仕組み

以下の図のように、普段は潜在化している感情、感覚、記憶、思考などが、各個人のトリガーポイントによって顕在化するようになっているのです。

心の仕組み

さらに、感情というのは、自分の意思で起こすものではなく、その人がこれまでの積み重ねた思い込みによって勝手に呼び起こされるもの、ということも重要な真実です。喜怒哀楽の条件は育った環境によって異なり、その表れ方も違います。それほど曖昧でいい加減な現象に私たちは振り回されて生きているんですね。

例えば、ボランティアをしたり、自然を大切にしようと思ったり、いいことをしようとします。その時人は気持ちよさを感じますよね。だからどんどんそれを求める。幸せに向かっているように感じる。だけどもしそれにこだわるあまり、それに賛同しない人や邪魔する人に怒りを感じるなら、苦しみもまた同じく増える。せっかく良いことをしても全然苦しみは減らない!と嘆く。

逆に、ものごとにこだわらず他人に対する怒りの感情もまたそこになければ、苦しむこともない、というわけです。

また、例えばお花見で桜を見て『綺麗だなぁ、嬉しいなぁ』という感情が湧き上がってきても、それは長くは続かず、次の瞬間には桜の木の下で食べるお弁当を食べて感動し、お花見が終わればそれらの感情は消えて無くなる。

もし、桜を見て湧き上がる『綺麗だなぁ』という感情が永遠に続くのなら、人は2度と桜を見ないでしょうね、と住職はおっしゃいました。

この世にある全てのものは移り変わる『諸行無常』なのだから、どんな感情もすぐに消えて無くなります。

もし、怒っているのが「私」ならば、怒りが去れば「私」は無くなるのか?喜んでいるのが「私」なら、喜びが去れば「私」も消滅するのか、、そうではないですよね。だから感情=自分ではない。その程度の単なる事象なのだと。

感情ってなんのためにあるの?

それは、言葉がまだない時の名残ではないかな?と思います。赤ちゃんは、おっぱいが飲みたい時そのタイミングで貰えなければ泣きます。おむつが濡れて気持ち悪いから変えて欲しいと泣きます。眠れないから寝かせてくれと泣きます。ママが抱っこしてくれたら嬉しくて安心して寝ます。動物も同様です。

言葉で伝えることができれば泣く必要も無くなる。ネガティヴな感情が無ければ争いが起こることはないでしょう。だけども、赤ちゃんの時に感情というものを使い意思を伝えるということを覚えたから人は、感情を表現する。言葉は無くとも伝わる。だから、どんな言葉にも感情が漏れなく付いて来るのです。

無我の境地とは?

これもよく聞く言葉ですが、ほとんどの方が間違った捉え方をしています。
目を閉じて、無になる無になる無になると唱え、何か別のことを考え始めると、いかんいかん!考えてはいかん!と頭を振り振り、無になれ無になれ無になれ!、、を繰り返す。これ、なんの意味もないです。

『無我』は、そもそも我は無いということ。

人は大概の人と理解しあってコミュニケーションを取っていると思っていますが、本当は同じものを違うように見て、感じていても、それをあたかも同じものを同じように見ているかのように、脳が勝手に調整しているから、うまく噛み合っているように感じているだけです。

人はオギャーと生まれて育っていく過程で、親や自分を取り巻く様々な環境や情報が、こういう事象にはこう反応するという方程式を作り上げ刷り込んでいく。そうして形成された「思い込み」が原因で人は様々なことに反応しているというわけです。

つまり瞑想って何?

瞑想の目的は『心の観察』です。感情は思い込みによって起こる。その思い込み(心の癖)に気づき、それはすぐに過ぎ去っていくはかないものだ、諸行無常で、たいして重要なことではない、ことを知ります。

瞑想はまず、意識を一点に留めておく練習から始まります。呼吸に意識を止める方法や周囲で聞こえる微かな音に耳を澄ませるなどその対象は様々です。

そうしているうちに、いかに自分の心の中が落ち着きなくカオスな状態かということを知ることになります。

幼い子供が、おもちゃを出したかと思えば、違うおもちゃを引っ張りだして、そうかと思えば絵本を持ち出し、今度はどこか違う場所に行っちゃった、、というように落ち着きなく、次々と思考が移り変わるのです。まさに諸行無常。でも普段はそんなふうに思考がグルグル変わっているということに気づいていないと思います。

続いて、その心の移り変わりを客観的に俯瞰で眺める練習です。最初はすぐにめくるめく思考に巻き込まれて流されてしまいますが、気付くたびに観察を繰り返すことによって、段々と観察し続けられる時間が長くなっていきます。

そして浮かんでくる様々な感情や思考を「今〇〇と考えている、、」「〇〇と思ってもいいよー」といった具合に流していく。それらにいちいちとらわれていてはなんの効果もないので、流して流して、、というのをとにかく練習する。

呼吸や周囲の音を対象にする他、歩きながら、食べながら、など色々な手段を使って行える瞑想についても教わりました。

アシュタンガヨガの実践も、いわば「動く瞑想」です。アーサナの実践をしながら、自分の体と心の状態を客観的に観察する練習です。小池さんの講話によって、さらに私たちが何を目指して実践を続ければ良いのかということを再確認できました。

瞑想修行10日間(in ヴィパッサナー瞑想センター)の話

気づき・洞察の「ヴィパッサナー瞑想」とは


2013年2月、タイ北部のチェンマイでタイ式マッサージの勉強をしたことがあります。
(現在は、ほとんど施術をする機会もないのですが・・・)
私の持っているタイ式マッサージのテキストに、セラピストがマッサージを施す前の心の準備として行っている瞑想法が掲載されています。
それが気づきの瞑想「ヴィパッサナー」です。
 
私は当時、瞑想自体、具体的にどのようにすればよいのか、どのくらいの効果があるのかも知らず、ほとんど経験がありませんでした。
ある時、その気づきの瞑想「ヴィパッサナー」の実践法を教えてくれる瞑想センターが日本にある、と知人から聞きました。
ヴィパッサナー瞑想法は私の大好きなゴータマ・ブッダが実際に修行していたものだというのを聞いて、飛びついたのです。
教えてくれた知人も実際に「10日間コース」を受けており、非常に良かったとのことだったので早速申し込みをしました(3か月前から予約ができますが、すぐにキャンセル待ちになるほど人気があるセンターです。)。

気になる方は、webサイトをご覧ください。https://www.jp.dhamma.org/ja/

そして、念願叶って、2013年5月末から12日間京都の山の方にある瞑想センターへ行っておりました。
 

ヴィパッサナー瞑想法とは(ヴィパッサナー協会の資料から抜粋)

『ヴィパッサナーはインドにおける最も古い瞑想法のひとつです。長く人類の間で失われていましたが、2500年以上前に、ゴータマ・ブッダによって再発見されました。「ヴィパッサナー」とは、物事をあるがままに見ることを意味します。それは自己観察による自己浄化のプロセスです。まず、心を集中するために自然な息を観察します。そして鋭く研ぎすました意識を持って、心と体の変化するという性質を観察することへと進み、無常、苦悩、無我、という普遍的な真実を経験します。この直接の経験による真実の実現が、浄化のプロセスです。この道(ダンマ)は全て、普遍的な問題のための普遍的な解決法であり、いかなる組織的な宗教や宗派とも関係ありません。この理由から、この瞑想法は人種や階級や宗教と矛盾することなく、誰でも、いつでも、どこにでも自由に実践でき、また全ての人々に等しく有益であることが分かっています。』

  • 盲目的信心に基づく儀礼や儀式ではありません。
  • 知的な、あるいは哲学的な娯楽ではありません。
  • 静養、休暇、社交の機会ではありません。
  • 日常生活の大変さからの逃避ではありません。
  • 苦悩を根絶する技です。
  • 落ち着いてバランスの取れたやり方で緊張や問題に直面することを可能にする心の浄化法です。
  • 社会に役立つために使うことのできる生きる技です。

 
私は、実践法を習う以前から、ブッダ関連の本を読みあさっていたので、ブッダが解く真理や自然の摂理、起こる問題の全てが自分の内側にあること、人はどう生きれば良いのかという知識はありました。
その知識だけでも、自分の中の問題を自分の力で解決できたりと、実生活にかなりの変化がありました。ですが、知識だけあってもダメです。
ヨガがそうであるように、やはり実践をしなければ、突発的な何かが起きた時にうまく対処できないのです。
泳ぐ方法を知っていても、実際に泳ぐ練習をしなければ泳げないのと一緒です。
 

アニッチャ(無常)の理解の上で完璧な平静さを保つ

 
これだけでは、なんのこっちゃ分からないと思います。でもこれがヴィパッサナー瞑想の真髄です。
よくある例を使って、説明してみます。
 
(例)「粗雑で大きな音を嫌悪している人が、それを耳にすると怒りが湧く」という無意識の反応パターン

【 法則 】
瞑想実践前・・・「粗雑な音」→「嫌いな音」→「イライラ」
瞑想実践後・・・「粗雑な音」→「”嫌いな音”だと嫌悪感を抱いている自分」を観察→「怒りが消える」


これと瞑想がどのように結びついているかというと、こうです。
瞑想は目を閉じて同じ姿勢で長時間座ります。
30分もすれば、股関節から足をもぎ取られるような痛みと、どうにかなりそうな足の痺れなどの肉体的苦痛を感じます。
しかし、それでも動かずにあくまで平静にその感覚を観察し続けなければいけません。全身の神経を全身の感覚に集中させて、微かな感覚も、分かりやすい激しい感覚すべて同等にとらえるのです。
すべてのものは常に移り変わっている、生まれては消えていく「無常」を理解して完璧な平静を保ち観察し続けます。
そして、心に浮かんだ様々な妄想、想像、記憶、アイデア全てについても、肉体的感覚と同様に、あくまで平静に観察をし続けるのです。
「私は今、妄想をしている。集中できなくなっている。痛いと感じている。早く終わって欲しいと思っている。」というふうに。
その訓練を続けていると、4日目にはほとんどの生徒が1時間ずっと動かずに座っていられるようになります。そして最終日までには、微かな感覚と激しい感覚が混ざり合い、全身均一な感覚に包まれます
 
まずは、自分の体におけるどんな感覚も同一と捉え、そこに何の感情も結び付けない練習をすることで、身の回りに起こるどんな出来事も(嬉しいことも悲しいことも)、単なる事象としてそこに感情を結び付けずに、平静に判断・行動できるようになるという論理がそこにあるわけです。
 
とはいえ、これはそう簡単にできることではありません。
瞑想を毎日の習慣にして、集中力や洞察力を鍛えていかなければならないのです。
実は、アシュタンガヨガの実践の中で、「瞑想」というのは、上級者レベルに達して初めて実践を許されるほど難しいものです。
アシュタンガヨガの上級者レベルというのは、世界的にみてもそう簡単には辿り着けない段階です。
そこに至った人たちは、瞑想修行に打ち込める集中力と心と身体の強さを持っている人たちです。
そうでない人たちには、理解できない領域であるし、理解しているつもり、やってるつもりになって、さらに、できていると勘違いをして、おかしな方向に行ってしまったり、頑張ってやっても効果はなく、継続できずに終わる・・・というのが目に見えています。
 
ですから、瞑想云々、洞察力がどうの、という話は、私たちのような初級〜中級レベルの実践者にはまだ早い訳です。
 
最近それをつくづく感じています。
私にはまだ早い・・・と。
 
ですが、だからこそ、アシュタンガヨガの練習に打ち込める訳で、今はとにかく目の前にある課題に集中して、一生懸命日々練習をしていこう!と思うのです。

全てのトラブルは「妄想」から生じる?!

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自分の心が常に動いていることに気づいていますか?
心は放っておくと色んな種類の妄想をしはじめます。
小さい子供が、遊んでいたおもちゃに飽きて次から次へと遊びを変えるように、心も次から次へとめまぐるしく思考の内容を変えます。
このような状態は、初めは心地よいかもしれませんが、様々な疑念や欲望が生じ、それが心を支配するようになると、人生が厄介なものになっていくかもしれません。
(妄想癖があることを自慢気に打ち明けている方、要注意です!)
“あの人は自分のことをどう思っているのだろう?”
“あの人は私よりも稼いでいるから幸せに違いない”
“あの人は才能があるから自分より優れている”
などと考えて、人は自分で自分の心を不安定にしていきます。
心を湖に例えると、このような考えは水面を乱す波のようなもので、その波のせいで湖の底の穏やかな水が見えないのです。
ヨガ、特に瞑想は、そのような考えや感情を静めて、穏やかな水、すなわち心の平安を見出せるようになるための方法なのです。

カリスマ、仏陀。

Wat Chedi Luang(ワット・チェディ・ルアン)の涅槃仏
Wat Chedi Luang(ワット・チェディ・ルアン)の涅槃仏

タイ人の95%が仏教徒だそうです。
宗教というのは、とてもややこしいところがあると思うのですが、「信仰」という行為に振り回されなければとても便利なツールだと思います。
そもそも、人間が感情や過去や自分の周りに起こる出来事に振り回されずに、心を自ら統御できるのであれば、「神」や「仏」や「宗教」などというものは存在しなかっただろうと思います。ですが、人間はどんどん鈍くなっていき、そういったツールがなければ心を統御できないようになってしまったのです。

仏陀(釈迦、ゴータマ・シッダールタ)は自分の説法の中で、唯一神の存在を認めてはおらず、信仰対象に執着せず、自分(ブッダ)の言葉にすら執着してはいけないよ、と言っています。それはつまり、自分の教えは「宗教」ではなく、心を自ら制御するトレーニングメソッドであるので、自分を神や仏のように崇めるというのは違うということなのです。

私はこの言葉にとても感銘を受けました。私がヨガやタイマッサージに深い興味を抱いたのも、心を統御するトレーニングをしたかったからなのですから・・・。それ以来、ブッダは私にとってもカリスマ的存在になったのです。
それでも現代では、ブッダは多くの弟子やファンから神格化され 、タイでも多くの寺院で崇められています。チェンマイにもどこかしこに寺院があり、金ピカの仏像がたくさんあります。それは仕方の無いことかもしれませんね。なぜなら先述の通り、そういうものがなければ人は自分の心を統御できないからです。

ちなみに、私がタイで訪れた寺院の中で一番のお気に入りは、Wat Inthrawatというところです。街から少し離れた静かな場所にあって、質素で素敵な寺院でした。唯一もう一度訪れたいと思うお寺でした。