アシュタンガヨガをすると怒りっぽくなるの?

もうかれこれ10年ほど前、私がまだ初心者だった頃のことです。あるアシュタンガヨガの先生が、「アシュタンガヨガは、その独自の呼吸法で体の中に”火”(エネルギー)を起こすので、怒りの感情が出やすくなる」と言いました。

「みんなもそうじゃない?」と聞かれ、同感した方もいらっしゃいましたが「う〜ん、そうかな〜?」と首をかしげる方もおり、さまざまな反応が見受けられました。

その様子を見て先生が「あれ?おかしいな。みんな、ちゃんと練習してるの?」と、笑っていました。

そして、先生が体験したアメリカのヨガスタジオでのピリピリした雰囲気、他の生徒さんや先生同士の険悪な雰囲気、他人に対して、ちょっとしたことで怒りが生じ怒鳴り散らした経験を、おもしろおかしくお話ししてくださいました。

ここまでの話を聞くと、
「アシュタンガヨガってなんのためにするの?」
「怒りっぽくなるんだったらしない方がいいんじゃない?」
「ヨガってそもそも穏やかな心を目指すものでしょう?」
と思うのではないでしょうか。今回は、このアシュタンガヨガが持つ性質についてシェアしたいと思います。

「火(エネルギー)」が自分の意識や感情を強くする

それからしばらくして、たまたま昔のヨガ雑誌を引っ張りだして見ているとこんな記事がありました。


(2006年11月10日発行 Yogini vol.9より)

「そのために必要なこと不要なこと」
アシュタンガヨガの練習、特に太陽礼拝のポーズは、太陽に向かって呼吸をしながら体を動かすことで、体内にたくさんのエネルギーが作り出されます。
エネルギーというのは、自分の意識の方向に流れるという性質があるので、普段から怒りっぽい人だともっと怒りっぽくなるし、物欲やお金に囚われている人はさらにその傾向が強くなります。つまり、アーサナの練習をすると良くも悪くも自分のマインドの通りに物事が運ぶようになるので、どういう意識でいるかがとても大切。その方向性を教えてくれるのが*ヤマとニヤマです。
ただ、このような仕組みは、アーサナの練習を通して体感できることなので、いまの時点で理解できなくて当然。頭でっかちになると良くないので、むしろ考えすぎずにまずは朝起きたら淡々とアーサナの練習をしましょう。

*ヤマとニヤマ・・・ヨガの八支則のうちの最初の2つ。ヤマは「禁戒」でやってはいけないこと、ニヤマは「勧戒」でやったほうがいいこと。


私はここで、腑に落ちました。あの先生の話を聞いたとき「怒りが生じる」ことにそれほど同感できなかった人は、同感できる人に比べて持っている怒りの感情が少ないだけなのだろう、と。要するにこれは、自分の中に作り出されたエネルギーが、怒りという感情に限らず、その時の自分の意識や普段から現れやすい感情をパワーアップさせて表面にあふれさせているということなのです。

なので、別の感情や性質(嫉妬、ケチ、プライドが高い、物欲・・・etc)の方が強ければそちらが表面化しやすくなっているのでしょう。

ネガティブマインドを燃やして浄化する

そういえば、先生はこうもおっしゃっていました。「アシュタンガヨガは、体の中に「火(エネルギー)」をおこして、ネガティブな意識や感情をどんどん燃やして、そして最後には浄化されるシステム。つまり最終的には、ネガティブな感情が生じにくい穏やかな心を持てるようになる。

ちなみに「浄化」というのは、自分の内面にしっかりと向き合って、散らかった感情を片付けて整理整頓したり、右往左往して迷っている意識を向けるべきところへ向けるという意味です。もちろんマインド面だけでなく、肉体面(血液、筋肉、内臓、など)の浄化も同時に行われます。

ネガティブな性格で、感情の波が大きくて辛い、、、という方も多いと思います。「一体何が自分を苦しめているのかさえわからない」混乱状態に陥ったりするかもしれません。

だけれども、アーサナの実践をしているだけで、自分を苦しめているネガティブマインドを1つ1つ表面化させて、その都度それが自動的に消されていくなら、とってもわかりやすいし、単純というか簡単そうですよね。

長年ヨガの実践を正しく真剣にやっている人を見れば一目瞭然。シンプルで迷いがなく、いつもスッキリして幸福そうですよね。そういう人でも最初からそうではなかったと思いますよ。もちろん、生まれたときから聖人君子のような人も稀にいますが、だいたいがそうではありません。正しく真剣に続けていれば、誰でもそうなれるのです。

普段の意識の持ち方が重要

普段の意識や自分の感情の性質が「その先」を決めるわけだから、気をつけなければいけないな、と思います。どれだけ浄化作業をやっていても、新たにネガティブマインドを生みだしていてはキリがありません。ですから、普段の生活や人間関係、様々な環境を整えていくことも、とても大切です。

そのために、ヨガの八支則には「ヤマ(禁戒)」「ニヤマ(勧戒)」というものがあり、ヨギーはそれを守ろうとするのです。ヨガの実践に本気で取り組むのであれば、必ずアーサナの練習だけではなく、ヨーガ・スートラというヨガの経典を読みなさい、と言われます。何も考えずにアーサナの実践だけやっているのと、ヨガというものの本質を知り、正しい知識と意識を持ちながら実践を続けるのとは、雲泥の差です。

「ヨーガ・スートラ」というのは、賢者パタンジャリが説いたヨガ思想を弟子たちがまとめてできた経典です。

そのヨーガ・スートラを翻訳・解説したさまざまな文献がありますが、ヨガの実践をしていない人、やっていても経験が浅い人がそれらを読解することはなかなか難しいと思います。ですが知ろうとすることが大切で、意味はわからなくてもとりあえずスートラに触れてみるということはしたほうがいいと思います。今はまだ理解できなくても、実践を続けていれば必ずそれを理解できる段階に辿り着くので、その時に「ああ、これはこういう意味だったんだ」と気づいたり、深く学ぶことができると思います。

もちろん、知識だけではダメです。アーサナの実践を日々行うことが必須条件ですよ^^

「インテグラル・ヨーガ」という文献がとてもわかりやすくて良かったのでオススメです。

アシュタンガヨガの成り立ちと発展

インドには伝統的なヨガがいくつかありますが、いずれも古いヨガの経典に書かれているものだったり、それを元に現代人が解釈を加えて作られたものだったりします。

私たちが日々実践し、みなさんにお伝えしている「アシュタンガ・ヨガ」もそれら伝統的なヨガの一つで、「ヨガ・コールンタ」という古い経典がベースになっています。

今回は、アシュタンガ・ヨガがどのようにして成り立ち、発展してきたのか、アシュタンガヨガの生みの親シュリ・K・パタビジョイス氏の著書「ヨガ・マーラ」の序文を元にお伝えしたいと思います。
※マーラ…サンスクリット語で「花冠」

アシュタンガ・ヨガの生みの親

アシュタンガヨガは、全てのアーサナ(ポーズ)の順番が決まっていたり、ポーズに伴う目線や呼吸のタイミングや動きの全てが、細かく決められていることが特徴なのですが、そのようなルールやシステムを作り上げたのが、シュリ・K・パタビジョイスという人です。ここから彼の名をジョイスという風に呼びます。

この人は、1915年生まれで、2009年に94歳で亡くなりました。彼の父親は占星術師で司祭でした。つまり、カースト制度では一番上のバラモン階級で、5歳からサンスクリットや儀式の教育を受けているような、エリート出身です。

ジョイスの少年時代

彼が12才の頃、中学校でヨガのデモンストレーションと講義が行われた時に、それを見たジョイス少年は、ヨガにとても魅了され、そこでデモンストレーションをしていたヨギーにヨガを教えて欲しいと頼み込んで、最初は子供なので軽くあしらわれるのですが、あまりに真剣なので、じゃあまた明日おいで、と言ってもらえて、それから毎日ヨガを教えてもらう日々が続きます。

実はそのヨギーというのが、クリシュナ・マチャリヤというとても偉大なヨギーでした。

実はジョイスは、ヨガをしていることや、これからヨガをもっと深く学ぼうとしていることを、自分の親や家族に秘密にしていました。

当時は、ヨガの実践者になるということは、家庭や社会を捨てるということになり、ジョイスの家の階級や父親の仕事柄、絶対にそれは許されないことだったからです。

15才の頃には、マハラジャのサンスクリット・カレッジに通うため、たったの2ルピーだけポケットに入れて家出同然でマイソールへ行きました。

行けばどうにかなると思っていたのでしょうが、1〜2年は物乞いをしたり、知り合いの宿舎に寝泊まりしながら、3年めにようやく親に連絡して、居場所や何をしようとしているかなどを打ち明けた後、なんとかまともに大学に通えるようになりました。

ヨガの実践と研究

それから26年間大学にとどまり、ヴェーダの研究、サンスクリットの習得、アドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論)という哲学で教授の地位を得ました。

当時、マハラジャ主催のデモンストレーションや研究調査をしていたクリシュナマチャリヤに同行したり、大学でヨガを教えたり、1948年にはヨガの病気治療的な側面を実験するための研究所「アシュタンガヨガ・リサーチインスティテュート」を自宅に設立しました。

アシュタンガ・ヨガの確立

この研究所の評判は、多くの生徒を呼び寄せました。アシュタンガ・ヨガが病気治療に繋がった事例がいくつもあるため、医者に勧められてやってきた難病患者(リウマチやハンセン病、喘息など)が、入り口に行列を作っていたというエピソードも多くあります。

そして、ヨーロッパやアメリカをはじめ、アジア各国、その他多くの国からヨガの修行にやって来ました。長期にわたってジョイスの元に通い修行を続ける人は、ジョイスの精神を受け継いで、それぞれの国で指導者となりアシュタンガヨガを伝えることができました。

また、彼の娘(サラスワティ)や息子(マンジュ)、孫であるシャラートやシャミーラも、ジョイスから学んだアシュタンガヨガの系譜を継承するため国内外で指導を行っています。

そのようにして、各地でアシュタンガ・ヨガというものが少しずつ知られることとなり、マドンナやスティングなどの有名人がアシュタンガヨガを実践し紹介したことにより、ヨガブームに火をつけ瞬く間に広がっていきました。パワーヨガやヴィンヤサヨガなどは、このアシュタンガ・ヨガを元にアレンジされたものと言われています。

さて、ジョイスは2007年に体調を崩し、2009年に94歳で亡くなりましたが、子供の頃から祖父のもとで学び、6つのシリーズすべてを実践してきた孫のシャラートがその後のKPJAYIのディレクターを引き継いでいます。

そして紆余曲折ありながらも、2019年にはジョイスの母、サラスワティ・ランガスワミが自身のヨガスクールをKPJAYIに移し、「K・パタビ・ジョイス・アシュタンガヨガシャーラ」と改名、シャラート・ジョイスは新しいシャラ「シャラート・ヨガ・センター」を開設しました。

ところで、ジョイスの師匠であるクリシュナ・マチャリヤを中心に、伝統的ヨガのルーツを追求したドキュメンタリー映画「聖なる呼吸」をご存知ですか?この映画では、ジョイスやその家族はもちろん、当時のヨギーたちの貴重な映像をたくさん観る事ができますので、興味のある方は是非入手してみてくださいね。

ヨーガ・スートラから読み解く「サマーディ(三昧)」とは

アシュタンガヨガの「アシュタンガ」には、八支則(八つの段階)という意味がありますが、古いヨガの経典「ヨーガ・スートラ」でそのことを詳しく説明しています。

今回は、「サマーディ」について、ヨーガ・スートラなどの経典や私個人の経験を通して、自分なりに気づいたことをお伝えしたいと思います。

「ヨガの八支則」

  • ヤマ(禁戒)・・やってはいけないこと
  • ニヤマ(勧戒)・・やった方がいいこと
  • アーサナー(坐法)・・ポーズの実践
  • プラーナーヤーマ(調気法)・・エネルギーのコントロール
  • プラティヤハーラ(制感)・・外側に向いた五感を閉じて意識を内側へ向ける
  • ダーラナー(集中)・・一点に全集中
  • ディヤーナ(静慮)・・心が動揺することなく一定の状態になる
  • サマーディ(三昧)・・全ての心の作用が止滅した状態

ヨガ初級者はまず、最初の三つの段階の実践を最低10年は日々繰り返さなくては、次の段階へは進めません。とても長い道のりですね。だけどこれが何より大切なことなのです。(「daily practice 「なぜ毎日練習」しなければいけないのか」参照)

ヨガ経典「ヨーガ・スートラ」と「サマーディ」

「ヨーガ・スートラ」は、賢者パタンジャリが説いたヨガ思想を弟子たちがまとめてできた経典です。

そのヨーガ・スートラを翻訳・解説したさまざまな文献がありますが、ヨガの実践をしていない人、やっていても経験が浅い人がそれらを読解することは、なかなか難しいと思います。
ですが、知ろうとすることが大切で、意味はわからなくてもとりあえずスートラに触れてみるということはしたほうがいいと思います。今はまだ理解できなくても、実践を続けていれば必ずそれを理解できる段階に辿り着くので、その時に、ああ、これはこういう意味だったんだ、と気づいたり、深く学ぶことができると思います。

「インテグラル・ヨーガ」という文献がとてもわかりやすくて良かったのでオススメです。

さて、ヨーガ・スートラはいきなりサマーディの説明から始まります。

サマーディとは、

(1-2)心の作用を止滅することが、ヨーガである

心の作用を止滅・・・どういう意味?としょっぱなからつまづくでしょうが、ここから先は、その具体的な内容の説明が続きます。

そして後半の方に、サマーディについてこう記されています。

(1-41) 自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ[三昧]である。

「自然の透明な水晶」というのは、まだ何の印象もついていない赤ちゃんの心のようなものだと思ってください。成長するに従って、環境、親の教育や周囲とのコミュニケーションのなかで、どんどんその水晶の様子が変わっていきます。

  • 良い印象=水晶を磨く行為
  • 悪い印象=水晶を汚す行為

みなさんの心の水晶の透明度はどのくらいのものでしょうか?

ヨガの実践は、この水晶を磨く行為です。ですから、やればやるほど、水晶は透明に近づいて行きます。その水晶が透明なら、ありのままの色や形を映せる、つまり、過去の経験による思い込みや印象が影響しない洞察ができる状態、すなわちそれがサマーディということになります。

最終目標「サマーディ」その後は?

ちなみにサマーディにも小さいものから大きいものまで色々な種類(段階)があり、一度経験したらそこから永遠にそれが続くというものではなく、すぐに元の状態に戻り、そのうちまた忘れた頃にサマーディがやってきて、すぐに元に戻る、というのを繰り返すようなものだそうです。
「サマーディ=最終目標」と聞くと、それを一度でも経験したらゴール!みたいなイメージがありますが、そうでは無いんですよね。

さらに、何か天啓を受けた!神の声が聞こえた!というようなもの(それは妄想に過ぎない)でもなく、サマーディが訪れたら、劇的に人が変わったようになる、というようなものでもありません。

アーサナの実践ですでに経験している小さなサマーディ

ここから私の主観ですが、アシュタンガヨガで日々実践しているアーサナは、最初は簡単なことから始めて、そのうち出来ないことができるようになり、その先に進んで、またできないことに出会い、乗り越えていくことを繰り返します。その間に、内観することを覚え、色々なことに気づき、変化が訪れます。それこそまさに小さなサマーディと言えるのでは無いでしょうか。

そして成長に伴い、肉体的・精神的な能力は大きくなり、次第に普通の人には成し得ないようなこともなし得るようになります。それも徐々になので、大きく動揺することもなく、静かな心で受け入れながら。ですから上級者になる頃には、最初の頃に持っていたわかりやすい「エゴ(他人との比較、優越感や劣等感、自信の有無、喜怒哀楽の感情)」がかなり薄れて、八支則の4段階目以降、エネルギーのコントロール、感覚の制御、集中力、瞑想などの実践が「アーサナの実践を通して」いつの間にか自然と理解できるようになっているのです。そうでなければ上級シリーズの実践はできないはずです。

ちなみに、元体操選手や運動能力が一般的でない人は、難しい上級レベルのアーサナができるケースが多いですが、そこにヨガ的な精神が備わっているかどうかが重要です。本人もそれが普通の人より簡単にできてしまうことで逆にエゴが強くなってしまうなど逆効果になってしまうこともあり、ヨガの効果や恩恵が受けづらく、内面の変化について判断がしにくいので、注意が必要です。

エネルギーの上昇は脳や神経系を刺激する

サマーディの状態になっている時、身体はどういう状態になっているのでしょうか。

ある文献では、サマーディの身体の状態を「自己が消え全てが一体となり恍惚感に包まれる」と表現していますが、一般の人にとってはなんだか怪しいスピリチュアルなもの、という印象を与えます。
ヨガの実践によって体内にエネルギーが作られ、それが骨盤底から頭頂に向かって流れだし、その間にある7つのチャクラを1つずつ開いていきます。開く方法は様々で、アーサナのほかに、呼吸法や瞑想、チャンティングなど色々なことをしながら、最後に頭頂のチャクラが開きます。

その際、脳のある部分が刺激を受けて、脳内に様々な物質を分泌させるため、サマーディ=恍惚感、神秘体験、オーガズムと表現されるような状態になります。

しかし、上記のような状態は、単なる生理現象でしかありません。同じような物質(麻薬によるもの)を脳に与えれば、同じような身体の反応が起こることもわかっていますし、五感を通して神経を刺激して操作することもできるようです。

日々の実践による積み重ねがなければサマーディではない

肉体も精神も鍛えられていない人が、麻薬や科学的な操作を使って脳がサマーディのような状態になったら、それを自分には何か特別な能力が目覚めた、覚醒したと勘違いしたり、その心地よさをまた味わいたいと執着するようになります。そして心が完全に囚われてしまうと破滅します。(数十年前の新興宗教によるテロ事件を参照)

それは本当の「サマーディ=心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態」とはかけ離れたものだから当然です。

ですが、精神と肉体を長年のヨガの実践(アーサナだけではなく、ヤマ、ニヤマを守り、エネルギーのコントロール、集中の実践も含む)を通して鍛え、様々な経験をし、知識を得、自分でサマーディの状態を作り出すことが出来るほどの修練者なら、サマーディの状態になっても、それが何ということもないと知っているので、自然なこととして受け流し、修行を続けることができるのです。

ヨガの目的は、「どんなことが起きても常に物事を冷静に客観的に観察できるようになるため」なので、たとえ、サマーディに至ったとしても関係なく、修行を続ける、ただそれだけです。
そのように生きる人の人生は、幸せでないわけがない。と、私なんかは思うのですが、みなさんはいかがですか?

その他の参考書

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第5章「正しい生き方」

ヨギー、特にアシュタンギーには是非いつか読んでもらいたい聖典「バガヴァッド・ギーター」とは、どんな物語なのか、一体どんなことをどんなふうに多くの人々に伝えようとしているのか、ということを、とってもわかりやすく解説してくれている上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を使って、紹介しています。

をまだ読んでいない方は、そちらからご覧ください。

クリシュナが語る「正しい生き方」とは

さて、ギーター第13章でクリシュナは、正しい生活とはどんなものか、その心得を列挙して説いています。

”慢心や偽善のないこと。不殺生、忍耐、廉直。
師匠に対する奉仕、清浄、堅い決意、自己抑制。”

  • 慢心・・・自分はこれだけのことをしている、、といった気持ちやそれを自慢したり、それに対する反応を他人に期待すること
  • 偽善・・・一見「純粋な目的」に見せながら、不純な動機や利害が隠れている宗教的行為や慈善事業などは有害とされる
  • 不殺生・・・傷つけないこと(身体的暴力、精神的暴力など)
  • 忍耐・・・様々な試練に耐えること
  • 廉直・・・自分の欲望のために嘘をつかない
  • 師匠への奉仕・・・古代インドにおいて師匠とは神に等しい絶対的存在であるため、どんな師匠であってもを尊敬しなければいけない
  • 清浄・・・身体の内側と外側、周囲の環境、心の中全てにおいて清らかであること
  • 堅い決意・・・決意したことを、強い意志を持って持続させること
  • 自己抑制・・・夜出歩かない、酒を飲まない、治安の悪い場所に行かない、自己抑制できない仲間とつるまない、なども含む

アシュタンガヨガやヨーガ・スートラを学んでいる方にはおなじみの「ヨガの八支則」と似ていますね。

「ヨーガ・スートラ」は、賢者パタンジャリが説いたヨガ思想を弟子たちがまとめてできた経典です。

そのヨーガ・スートラを翻訳・解説したさまざまな文献がありますが、ヨガの実践をしていない人、やっていても経験が浅い人がそれらを読解することは、なかなか難しいと思います。ですが、知ろうとすることが大切で、意味はわからなくてもとりあえずスートラに触れてみるということはしたほうがいいと思います。今はまだ理解できなくても、実践を続けていれば必ずそれを理解できる段階に辿り着くので、その時に、ああ、これはこういう意味だったんだ、と気づいたり、深く学ぶことができると思います。

「インテグラル・ヨーガ」という文献がとてもわかりやすくて良かったのでオススメです。

古代インドの古い経典に書かれていること全てが、現代に生きる私たちに当てはまる訳ではないのですが、道徳的に当然と思われるものがほとんどなので、理解しやすいかと思います。

さて、第14章〜18章については、難しい内容かつ馴染みが浅いので省略します。

第19章では「三つの構成要素(グナ)」について記載されていますが、この世にある全てのものは、三つの構成要素(純質、激質、暗質)によって構成されており、そのバランスによって、そのものの性質が決まると言われています。このグナについては、過去の記事(ヨガと食の関係)を参照してみてください。

”生命力、勇気、健康、幸福、喜びを増大させ、美味、油質で持続性があり、心地よい食べ物は純質な者に好まれる”

”過度に苦く、酸っぱく、塩辛く、(口などを)焼く、刺激性で、油気がなく、ヒリヒリし、苦痛と憂いと病気をもたらす食物は、激質的な者に好まれる。”

”新鮮でなく、味を失い、悪臭あり、前日に調理された、また食べ残しの、不浄の食べ物は、暗質的な者に好まれる”

ギーターでは、このような「好まれる」といった表現をされていますが、口にするものの性質がそのまま私たちの性質(人格)を決めているとも言えます。

栄養のバランスが取れた、和食のような純質で優しい食事をしていると、心が穏やかでまろやかになるでしょう。

塩気の多い居酒屋のような食事や、辛くて刺激の強い食べ物を毎日食べていたら、興奮したり怒りっぽくなったりします。

添加物だらけで製造から時間が経過したスーパーのお惣菜やコンビニ等の弁当を毎日のように食べていると、ダラダラ怠けやすい性質になっていきます。

もちろん、絶対に激質的な物や暗質的なものを食べてはいけないとは言いませんが、可能な限り、純質なものを口にするようにすれば、私たち自身の性質も純質なものと変わっていくことは間違いありません。これは実感として多くの方が証明しています。

食べ物については、とてもわかりやすい例だと思いますが、生活環境も同じです。

太陽が出ている間に活動し、暗くなれば休む、暗質な人たち、激質な人たちの中に入らない。

というようにすれば、どう考えても健康上や人間関係のトラブルが激減するはずです。

このような思想に従うことで、自ずと正しい生き方ができると、教えてくれています。

さて、「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典ということで、全5章に渡って「バガヴァッド・ギーター」を紹介する記事を書いてみました。いかがだったでしょうか?

現代社会に生きる私たちにとって、馴染みやすいと思われる内容のみを取り上げていますので、もしもっと深く知りたいなと思われた方は、今回参考にさせていただいた上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を是非読んでみてくださいね!

オススメの文献

 

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第3章「平等の境地」

ヨギー、特にアシュタンギーには是非いつか読んでもらいたい聖典「バガヴァッド・ギーター」とは、どんな物語なのか、一体どんなことをどんなふうに多くの人々に伝えようとしているのか、ということを、とってもわかりやすく解説してくれている上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を使って、紹介しています。

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 序章
「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第1章
「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第2章「不滅の存在」
をまだ読んでいない方は、そちらからご覧ください。

 

そもそもインドでは、良い行為を行えば良い結果を生み、悪い行為を行えば悪い結果を生む、と考えられてきました。これを「カルマ」(漢訳仏典では「業(ごう)」)といいます。

初期仏教など、修行に励むために一般の社会を捨てることを勧めている宗教もあったようですが、ヒンドゥー教や「ギーター」においては、社会的な義務を果たすこと、全うすることを重要視しています。

しかしながら、社会的義務を果たすことによって、罪悪を犯すことになってしまう人も、中にはいます。

アルジュナのような戦士、軍人などは、戦いの相手を殺すことになるからです。

さて、自分は一体どうすれば良いのかを問う戦士アルジュナに、クリシュナはこう答えます。

苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。

この世の全てを、平等のものと見れば、行為の結果に縛られず、苦しむことがないというのです。

ギーターの中で非常に有名な句があります。

あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機にしてはいけない。また、無為に執着してはならない。

無為に執着する、とは、例えば修行のために社会生活を捨てる、などの行為を指しています。ヒンドゥー教の考え方として、人は「学生期(勉学に励む)」「家長期(家庭を持つ)」「林住期(森に隠遁)」「遊行期(聖地巡礼)」という「四住期」を経ることが理想的な生涯とされるからです。

さて、「成功すれば果報がある」「失敗すれば悪い結果を招く」とあれこれ考えすぎて仕事に失敗してしまうことは、私たちの日常においてよくあることです。

後先のことを何も考えずその行為そのものに集中していれば、とても良い結果を得られるということも。

しかし、たとえそれを頭で理解していても、実際に結果を考えずに行為に専念するというのは、なかなか難しいというのも事実です。

では、どうすれば良いか?

クリシュナは、アルジュナに「ヨーガに拠り所を求めるべき」と説きます。

これまで、ヨガや瞑想を実践してこられた方は、このことがとてもよくわかると思います。

例えば、このポーズができた!と喜ぶ。このポーズができない・・・と落ち込む。このポーズがきつい!嫌だ。このポーズは楽だから好き。先生が見ているから気合が入る。誰も見ていないから楽をしよう。

と、いう風に、自分の行為や起こる現象に対して一喜一憂したり心を揺らすのではなく、どんな状況であっても常に一定の安定した心を保つ練習、それがヨガの実践ですよね。

つまり、私たちは、このヨガの実践において、平等の境地を目指しているわけですが、それは一体何のためか。

それは、不安定な心身に振り回されて苦しまないためです。

些細なことから大きな出来事に到るまで、何が起きても平静に、対処し、解決していく力を育てているのです。

執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは、平等の境地であると言われる。


「知性(ブッディ)の確立」=ヨーガの完成

クリシュナは、平等の境地に至る人は「知性(ブッディ)」が確立した人であり、心の最も真相の部分の働きにおいてもなお動じることはなく、結果に束縛されないと言います。

アルジュナは、それは具体的にどんな人なのか?クリシュナに問います。どのように語り、坐し、歩むのか、特徴を知りたい。と。

不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡智が確立した聖者と言われる。

すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。

亀が頭や手足を全て収めるように感官の対象から感官を全て収める時、その人の智慧は確立している。

(人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が生まれる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生じる。怒りから、迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生じる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。)

人は誰でも、ヨーガのもとに、行動・行為することで、平等の境地に至り、知性を輝かせることができるのだと、だから、何も考えずにやりなさい、ということなのです。

では、一体どのようにして、ヨーガのもとに行動・行為に専心すれば良いのか、その具体的な方法について、次回は書きたいと思います。

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第2章「不滅の存在」

みなさんこんにちは!

ヨギー、特にアシュタンギーには是非いつか読んでもらいたい聖典「バガヴァッド・ギーター」とは、どんな物語なのか、一体どんなことをどんなふうに多くの人々に伝えようとしているのか、ということを、とってもわかりやすく解説してくれている上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を使って、紹介しています。

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 序章「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第1章をまだ読んでいない方は、そちらからご覧ください。

 

さて、ここからはいよいよ賢者クリシュナがアルジュナに教え説く内容をみていきます。

「敵側にいる自分の親類や友人たちを殺してまで自分は生き延びたいとは思わない」と言ったアルジュナにクリシュナはこう答えます。

「賢者とは、死者についても生者についても嘆かないものだ」

それはなぜか?

「我々は、存在しなかったこともなく、存在しなくなることもない」

実は私たちは、永遠不滅の「主体」、生まれたり死んだりしない存在であって、ある一定期間、ある身体に入り込んで、ある時期をすぎると、その身体を捨ててまた別の身体に入るということを永遠に繰り返しているものである、というのです。

「個人の主体となるものは、その身体において少年期、青年期、老年期を経て、また別の身体を得る」

ここでの主体というのは、いわゆる霊魂みたいなもののことです。

その霊魂が、ある肉体に入り込んで(生命誕生)、少年期、青年期、老年期を経て、やがてその肉体が死に至る時、主体である霊魂は、その肉体を脱いで別の肉体へと入り、また同じように、「人生」を歩む。

それを繰り返すことを「輪廻」と言います。

この「輪廻」という思想は仏教にも取り入れられているので、日本人であれば馴染みのある話かなと思います。

「しかしながら物質との接触は寒暑、苦楽をもたらし、来たりては去り無常であるので、それに耐えよ」

そして、肉体を持つ限り、物質との接触は避けられず、寒暑や苦楽を体験することになるし、生まれれば必ず死ぬわけなので、私たち生きとし生けるものは全てそれに耐えるしかない。ということなのです。

クリシュナは、肉体は滅んでも個人の主体は常に存在し不滅であるから、この戦いにおいて彼(相手)が死んでも、彼の主体は存在し続ける、だから嘆く必要はない、と言っています。

生き物は、輪廻の道理によって生死を繰り返しているのであって、どのような死に方をするかも輪廻の道理によるわけで、そのような不可避のことに嘆く必要はない。

だから、たとえアルジュナが相手を攻撃することで、相手が死に至るとしてもそれはそういう輪廻の道理によるものだと。

でもアルジュナとしては、人を殺すことは悪いことであって、悪いことをすれば、その罪は消えない、と恐れます。

それでは、ギーターは人殺しも戦争も良しとしているのではないか?という疑問も湧いてきますね。

でも、決して人殺しや戦争をここで勧めているのではありません。

ギーターでは一般的な道徳を守るべきだということも説いていますので、これはあくまでこの状況においての表現であることを誤解なきように。

日常的なレベルで「生」も「死」も同じだと言っているのではなく、ある非常に高い境地に達したときにそれらは同じものになり全てが平等になるということなのです。

しかも「戦うことが義務」である、アルジュナのような戦士が、戦地で、自分の恐れや悲しみという感情に振り回され、自分の義務を放棄することは、かえって罪悪を生むだけでなく、不名誉なことだと人々に語り継がれ、結局は苦しみが大きくなる、だから戦うべきだとクリシュナは言います。

さあ、追い込まれたアルジュナ、一体どうすればよいのでしょうか?

その答えは、次回またお話しいたします。

Rawpixel.com – jp.freepik.com によって作成された abstract 写真を使用

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第1章

さて、「バガヴァッド・ギーター」が、インド人にとってどんなものか、そして日本人にとっても実は馴染みやすそうなものだということはおわかりいただけたのではないでしょうか?

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 序章はこちらからお読みください。

バガヴァッド・ギーターは、世界最大の叙事詩「マハーバーラタ」の一編で、舞台は親族間で起こった大戦争でしたね。

「マハーバーラタ」は、全体的に「時間」「死神」「運命」などを表す言葉「カーラ」に支配される人間の虚しさを軸として、おびただしい数の物語や神話、伝説が盛り込まれています。

そしてその中の一編「バガヴァッド・ギーター」には、

この世に生まれたからには、たとえどのような行為であっても、自分に定められた行為に専心すること

でそのような苦悩を超越できるのだ、というような哲学的宗教的なことが書かれています。

ギーターは約二千年間にわたり、インドの知識人に計り知れない影響を与えました。

そしてフランス語や英語、ドイツ語などで書かれた翻訳、研究書、紹介書などもおびただしい数になり、インド国外でも高く評価され、多くの芸術家や文学者からも愛されてきました。

ギーターは、ヨーロッパなどではそれほど影響力のあるものなのですが、残念ながら日本ではインドの文化や宗教に関心がある人にしか知られていないのが現状です。

ということで、「バガヴァッド・ギーター」とは、どんな物語なのか、一体どんなことをどんなふうに多くの人々に伝えようとしているのか、ということを、とってもわかりやすく解説してくれている上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を使って、紹介しています。

 

今回は、バガヴァッド・ギーターの大まかな内容や物語の流れについて、見ていきます。

バラタという王がいて、そこから子孫ができるんですが、次第に王位継承問題や権力争いが起きて、親族間で領土をめぐり戦争になるところからバガヴァッド・ギーターの物語は始まります。

いよいよ合戦が始まり、争っている二つの軍の一方「パーンダヴァ」に属するアルジュナという戦士が、戦うべき敵軍を見渡したとき、そこに自分の親類や友人や自分の師と仰ぐ人たちが大勢立っているのを見て、嘆き悲しみ心乱され、弓矢を捨てて戦車の座席に座り込みます。

そこで御者を務めていた親友でもある賢者クリシュナ(実は最高神の化身という設定)は、心の弱さを捨てて戦えと励ましますが、敵側にいる自分の親類や友人たちを殺してまで自分は生き延びたいとは思わない、戦えない、と告げながらも、どうか迷っている自分に教え導いて欲しいとクリシュナにお願いします。

そこから、クリシュナがアルジュナに、様々なことを教え説いていくのですが、それがまさに『ヨギー』としての生き方やそういう生き方をするとどうなるのか・・・、というような、私たちアシュタンギーが追求していくべきことなのです。

だから、アシュタンガヨガを学ぶ人は、このバガヴァッド・ギーターを読むことを勧められるわけなんですね。

ちなみにこの中には、日本の文化や社会で現代に生きる私たちにはちょっとピンとこない内容もありますし、半分は瞑想の実践を行う上級者向けの内容でもあるので、そこは省いて、アシュタンガヨガの初級者にとって、特に知っておくと良いと思える内容のものをピックアップして、ご紹介したいと思います。

  • 不滅の存在(p37~)
  • 平等の境地(p49〜、p121~)
  • 調和のとれた生活(p121~)
  • 瞑想の実践(p109〜)
  • 正しい生き方(p207〜)
  • 三つの構成要素(グナ)(p246~)

こういったことを、賢者クリシュナはアルジュナに教え説いていきます。

その結果、最終的にアルジュナの迷いは消え、激戦ののちアルジュナ側の軍の勝利に終わりました。
ということです。

さあ、いよいよ次回からは、クリシュナが説いた内容についてその項目ごとに、紹介します。

「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 序章

アシュタンガヨガのプラクティショナー(実践者)が、ヨガ哲学を学ぶとしたら、まず最初に読む(学ぶ)べきものは「バガヴァッド・ギーター」であると、現在のアシュタンガヨガの総本山マイソールの師であるシャラート先生はおっしゃっています。

そしてそれは、一度読んだだけで「知識を得た!理解した!」と言うようなものではなく、何年もかけて、何度も読み、自分の成長の段階とともにその言葉の持つ意味が「変化」していく「人生のバイブル」のようなものだと。

アシュタンガヨガを一生懸命実践している皆さんが、今後、興味を持って学ぼうとした時に、あまりにその内容が難解で投げ出してしまい、たくさんの恩恵を受けるせっかくのチャンスを逃してしまわないように、オススメの本を使って、この「バガヴァッド・ギーター」を紹介したいと思います。

今回参考にした本は、*上村勝彦さんがサンスクリット原典を訳した「バガヴァッド・ギーター」、そしてそれをさらにわかりやすく解説した「バガヴァッド・ギーターの世界」です。

この方の文章は、とにかく語り口が優しくて、解説もわかりやすいので、小難しい文章が苦手な方にも大変おすすめです。

*東京都浅草寺支院に生まれる。サンスクリット文学、インド哲学・思想を研究し、もっとも難解な言語と評されるインド古典語サンスクリット語(梵語)による文学作品を非常に分かり易く、親しみやすい日本語で考察した著作は、高い評価を受けている。(Wikipediaより)

さて、インドの人口の80%を占める宗教は「ヒンドゥー教」です。みなさんはヒンドゥー教のことをどれくらい知ってますか?

ヒンドゥー教は「ヴェーダ」という古い聖典を奉ずるバラモン教が元となってできた宗教です。

インド料理屋さんに行けばお店のインテリアとして飾ってある「シヴァ神」とか「ガネーシャ神」などが有名ですね。正直私はせいぜいそのくらいしか思い浮かばなかったんですが、ヒンドゥー教やインドで信仰されている神様は他にも色々あります。

そして実は、日本人が昔から信仰したり崇めたりしてきた神様は、こういったヒンズー教の神様が元ネタになっているものが多いんです。

  • アスラー(バラモン教でいう悪魔)→ 阿修羅(悪魔)
  • デーヴァ(最大の神)→ 帝釈天(神々の王)
  • ヤマ(地獄の死神)→ 閻魔(地獄の王)
  • サラスヴァティ(水の女神、芸術の神)→ 弁財天(七福神の一人)
  • マリーチ(インド密教の女神)→ 摩利支天(陽光の神)
  • ハーリティ(地母神)→ 鬼子母神(毘沙門天の部下の妻)

そのほか影響を受けている神として

  • 毘沙門天(七福神の一人)→ 梵天(ブラフマー)の孫
  • 那羅延金剛(金剛力士の一人)→ ヴィシュヌ神がモチーフ
  • 大黒天(七福神の一人)、千手観音、十一面観音 → シヴァ神がモチーフ

このように、私たち日本人は、実はヒンドゥ教の神々に囲まれて、そうとは知らずに拝んでいる人がほとんどだという事実が「バガヴァッド・ギーターの世界」に書かれています。

さて、そのヒンドゥ教は、世界に広がる5大宗教の一つです。

その5大宗教とは、「ヒンドゥ教」の他に「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」「仏教」ですが、ヒンドゥ教はこの中で一番古い歴史を持つ宗教でもあります。

この年表を見てわかるとおり、ヒンドゥ教の元となるバラモン教が生まれたのが今から遡ること5000年の紀元前3000年なんです。

大まかにいうと、その1000年後にユダヤ教、その1600年後に仏教、その600年後にキリスト教、その500年後にイスラム教が始まったということです。

ヒンドゥ教やインドに根付く「ある思想」は、仏教の教え(*仏陀のオリジナルの言葉)を通じて日本に入り日本の宗教や文化に多大な影響を与えました。

*仏陀のオリジナルの言葉・・・仏教の中で様々な宗教が生まれ、各宗教団体に都合の良いように修正されて内容が変わってしまったものも多く(小乗仏教など)。「原始仏教」「大乗仏教」はブッダのオリジナルの教えに近いと言われている。

その「ある思想」というのは、次のような思想です。

『絶対者(最高神)と思われるものは、姿形なく、目に見えず、すべてのものに遍満し、私たち個々人のうちにもその性質がある。』

じゃあ、先ほど登場したヒンドゥ教の神様たちはなに?!って話なんですけど、これはヒンドゥ教に限らず、こういった神話は自然現象や歴史上の出来事を始め、普通の人には理解できないような事などを、伝承していく過程で生まれたものなんですが、もちろんそれを信じている人はいるわけで、それがいわゆる信仰心というものな訳です。

こういった思想について書かれているのが、インドで最もポピュラーな「バガヴァッド・ギーター」です。

ヒンドゥ教の聖典にもたくさんいろんな種類のものがありますが、「二大叙事詩」と呼ばれる、言うなれば超大作の「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」がとても有名で、そのうちの「マハーバーラタ」、これは全部で18巻あり世界最大級の叙事詩です。

「マハーバーラタ」は、バラタ族という一族の間の大戦争を中心とした話で、その中の第6巻におさめられたある一編が「バガヴァッド・ギーター(神の詩)」です。

先ほど、インド人の間で最もポピュラーだと言いましたが、ユダヤ教やキリスト教には聖書が、イスラム教にはコーラン、仏教には法華経や般若心経があるように、ヒンドゥ教ではバガヴァッド・ギーターを人生のバイブルとしている、ということなのです。

「バガヴァッド・ギーター」が、インド人にとってどんなものか、そして日本人にとっても実は馴染みやすそうなものだということはおわかりいただけたのではないでしょうか。次回は、バガヴァッド・ギーターの大まかな内容や物語の流れについて、見ていきます。

参考文献

 

親子の良い関係とは(幼少期編)

娘は預け先などでよく「いい子だね」「よくいうことを聞いてお利口さんだね」と褒められるんですが、確かによそ行き顔といいますか、表向きの顔はそうかもしれません。
でも、私たち親の前では、ちゃんと聞かん坊、暴れん坊の面を見せています。

本当にいい子っていうのは、「扱いやすい子」ではなく、年齢相応の成長をしている子ってことだと思います。
娘はもうすぐ3歳になりますが、虫の居所が悪い時には、なんでも嫌って言いますし、癇癪起こして手がつけられないようになったり、「ママなんか大っ嫌い!!!」と言ってどこかへ走り去っていくわりに、ほおっておいたら「ママがいないと寂しい」と言って泣き叫びます。
支離滅裂な訴えをしつこくしてきたり、怒って泣いたかと思えば、すぐにつまらないことでゲラゲラ笑ったり、、、、
赤ちゃんから幼児となり、そこからもう一つ成長をしようとするときに、よく見られる子供そのもの。

暴れる娘を抑え込むのは簡単なのですが、もう物事がわかってきている年齢だけに、力づくでどうにかしようとしたって、ますます抵抗心に火をつけるだけであまり効果はないんですよね、、、。
それに、娘を叩いたりすると自分自身が苦しくなる上、「目には目を」という乱暴的な解決法ではなく、平和的な解決法があることを学んで欲しいので、思わず手をあげたくなるところをグッとこらえます。
怒鳴り泣き叫ぶ娘には知らん顔、叩いたり蹴ったり暴力をよこしてくれば無抵抗、あるいは「叩かれたり蹴られたら痛いし、怖いからもうこっちへ来ないで!」と恐れるそぶりをすると、かなりショックを受けたみたいで、「ママ、ご、ごめっ、ごめんっ!!もう、叩かない、、から、来ないでって、言わないでっ!」としゃくりあげながら自分から謝ってきました。
ああ、ついに自分で感じて判断して「ごめんなさい」ができるようになったなあ、と感動して、私もついついもらい泣き。「わかった、もういいよ」とギュッと抱きしめました。
これまで寂しかった経験をひとつひとつ話してくれる娘。全部言い終わったら安心して眠りにつきました。

本気でぶつかり合っている私たちですが、あまり見られたくない程、激しいです。ですが、ストレートに自分の感情の移り変わりを見せることで、人を傷つけることの怖さ、傷つくことの辛さを学んで欲しいなと思います。
アシュタンガヨガの八支則に「アヒムサ(非暴力)」というのがあります。
身体的にも精神的にも、他人に対しても自分自身に対しても、決して傷つけないこと。
例えば、我慢したり無理したりすることも自分自身への暴力であるし、無意識の言動で人を傷つけた場合も暴力であるので、これらを全うしようとしたらかなり難しいかもしれませんが、そういう心がけを持つ、意識するということがとても重要だと思っています。
「しつけ」というのは本当に難しいと感じています。
ついつい感情的になって大人気ない態度をとってしまったり、思わず手を上げてしまったり。
親だからといって人間的に優秀なわけではないのだから、子供のことで悩んだりつまづいたり転んだりするのは当然。
真剣に向き合い、お互いを尊重し、共に良くなっていこうと努力しあうことで、何かが見えたり乗り越えたりしながら、一緒に人として成長していく。
それは親子同士だけでなく、夫婦や友人同士、上司と部下など色んな関係でも同じこと。
それが「良い関係」だなぁ、と思います。