みなさんこんにちは!
ヨギー、特にアシュタンギーには是非いつか読んでもらいたい聖典「バガヴァッド・ギーター」とは、どんな物語なのか、一体どんなことをどんなふうに多くの人々に伝えようとしているのか、ということを、とってもわかりやすく解説してくれている上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を使って、紹介しています。
「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 序章と「バガヴァッド・ギーター」〜ヨギーが読むべき聖典〜 第1章をまだ読んでいない方は、そちらからご覧ください。
さて、ここからはいよいよ賢者クリシュナがアルジュナに教え説く内容をみていきます。
「敵側にいる自分の親類や友人たちを殺してまで自分は生き延びたいとは思わない」と言ったアルジュナにクリシュナはこう答えます。
「賢者とは、死者についても生者についても嘆かないものだ」
それはなぜか?
「我々は、存在しなかったこともなく、存在しなくなることもない」
実は私たちは、永遠不滅の「主体」、生まれたり死んだりしない存在であって、ある一定期間、ある身体に入り込んで、ある時期をすぎると、その身体を捨ててまた別の身体に入るということを永遠に繰り返しているものである、というのです。
「個人の主体となるものは、その身体において少年期、青年期、老年期を経て、また別の身体を得る」
ここでの主体というのは、いわゆる霊魂みたいなもののことです。
その霊魂が、ある肉体に入り込んで(生命誕生)、少年期、青年期、老年期を経て、やがてその肉体が死に至る時、主体である霊魂は、その肉体を脱いで別の肉体へと入り、また同じように、「人生」を歩む。
それを繰り返すことを「輪廻」と言います。
この「輪廻」という思想は仏教にも取り入れられているので、日本人であれば馴染みのある話かなと思います。
「しかしながら物質との接触は寒暑、苦楽をもたらし、来たりては去り無常であるので、それに耐えよ」
そして、肉体を持つ限り、物質との接触は避けられず、寒暑や苦楽を体験することになるし、生まれれば必ず死ぬわけなので、私たち生きとし生けるものは全てそれに耐えるしかない。ということなのです。
クリシュナは、肉体は滅んでも個人の主体は常に存在し不滅であるから、この戦いにおいて彼(相手)が死んでも、彼の主体は存在し続ける、だから嘆く必要はない、と言っています。
生き物は、輪廻の道理によって生死を繰り返しているのであって、どのような死に方をするかも輪廻の道理によるわけで、そのような不可避のことに嘆く必要はない。
だから、たとえアルジュナが相手を攻撃することで、相手が死に至るとしてもそれはそういう輪廻の道理によるものだと。
でもアルジュナとしては、人を殺すことは悪いことであって、悪いことをすれば、その罪は消えない、と恐れます。
それでは、ギーターは人殺しも戦争も良しとしているのではないか?という疑問も湧いてきますね。
でも、決して人殺しや戦争をここで勧めているのではありません。
ギーターでは一般的な道徳を守るべきだということも説いていますので、これはあくまでこの状況においての表現であることを誤解なきように。
日常的なレベルで「生」も「死」も同じだと言っているのではなく、ある非常に高い境地に達したときにそれらは同じものになり全てが平等になるということなのです。
しかも「戦うことが義務」である、アルジュナのような戦士が、戦地で、自分の恐れや悲しみという感情に振り回され、自分の義務を放棄することは、かえって罪悪を生むだけでなく、不名誉なことだと人々に語り継がれ、結局は苦しみが大きくなる、だから戦うべきだとクリシュナは言います。
さあ、追い込まれたアルジュナ、一体どうすればよいのでしょうか?
その答えは、次回またお話しいたします。