ヨガの最終目標「サマーディ(三昧)」とは

アシュタンガヨガの「アシュタンガ」には、八支則(八つの段階)という意味がありますが、古いヨガの経典「ヨーガ・スートラ」でそのことを詳しく説明しています。

今回は、「サマーディ」について、ヨーガ・スートラなどの経典や私個人の経験を通して、自分なりに気づいたことをお伝えしたいと思います。

「ヨガの八支則」

  • ヤマ(禁戒)・・やってはいけないこと
  • ニヤマ(勧戒)・・やった方がいいこと
  • アーサナー(坐法)・・ポーズの実践
  • プラーナーヤーマ(調気法)・・エネルギーのコントロール
  • プラティヤハーラ(制感)・・外側に向いた五感を閉じて意識を内側へ向ける
  • ダーラナー(集中)・・一点に全集中
  • ディヤーナ(静慮)・・心が動揺することなく一定の状態になる
  • サマーディ(三昧)・・全ての心の作用が止滅した状態

ヨガ初級者はまず、最初の三つの段階の実践を最低10年は日々繰り返さなくては、次の段階へは進めません。とても長い道のりですね。だけどこれが何より大切なことなのです。(「daily practice 「なぜ毎日練習」しなければいけないのか」参照)

ヨガ経典「ヨーガ・スートラ」と「サマーディ」

「ヨーガ・スートラ」は、賢者パタンジャリが説いたヨガ思想を弟子たちがまとめてできた経典です。

そのヨーガ・スートラを翻訳・解説したさまざまな文献がありますが、ヨガの実践をしていない人、やっていても経験が浅い人がそれらを読解することは、なかなか難しいと思います。
ですが、知ろうとすることが大切で、意味はわからなくてもとりあえずスートラに触れてみるということはしたほうがいいと思います。今はまだ理解できなくても、実践を続けていれば必ずそれを理解できる段階に辿り着くので、その時に、ああ、これはこういう意味だったんだ、と気づいたり、深く学ぶことができると思います。

「インテグラル・ヨーガ」という文献がとてもわかりやすくて良かったのでオススメです。

さて、ヨーガ・スートラはいきなりサマーディの説明から始まります。

サマーディとは、

(1-2)心の作用を止滅することが、ヨーガである

心の作用を止滅・・・どういう意味?としょっぱなからつまづくでしょうが、ここから先は、その具体的な内容の説明が続きます。

そして後半の方に、サマーディについてこう記されています。

(1-41) 自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ[三昧]である。

「自然の透明な水晶」というのは、まだ何の印象もついていない赤ちゃんの心のようなものだと思ってください。成長するに従って、環境、親の教育や周囲とのコミュニケーションのなかで、どんどんその水晶の様子が変わっていきます。

  • 良い印象=水晶を磨く行為
  • 悪い印象=水晶を汚す行為

みなさんの心の水晶の透明度はどのくらいのものでしょうか?

ヨガの実践は、この水晶を磨く行為です。ですから、やればやるほど、水晶は透明に近づいて行きます。その水晶が透明なら、ありのままの色や形を映せる、つまり、過去の経験による思い込みや印象が影響しない洞察ができる状態、すなわちそれがサマーディということになります。

最終目標「サマーディ」その後は?

ちなみにサマーディにも小さいものから大きいものまで色々な種類(段階)があり、一度経験したらそこから永遠にそれが続くというものではなく、すぐに元の状態に戻り、そのうちまた忘れた頃にサマーディがやってきて、すぐに元に戻る、というのを繰り返すようなものだそうです。
「サマーディ=最終目標」と聞くと、それを一度でも経験したらゴール!みたいなイメージがありますが、そうでは無いんですよね。

さらに、何か天啓を受けた!神の声が聞こえた!というようなもの(それは妄想に過ぎない)でもなく、サマーディが訪れたら、劇的に人が変わったようになる、というようなものでもありません。

アーサナの実践ですでに経験している小さなサマーディ

ここから私の主観ですが、アシュタンガヨガで日々実践しているアーサナは、最初は簡単なことから始めて、そのうち出来ないことができるようになり、その先に進んで、またできないことに出会い、乗り越えていくことを繰り返します。その間に、内観することを覚え、色々なことに気づき、変化が訪れます。それこそまさに小さなサマーディと言えるのでは無いでしょうか。

そして成長に伴い、肉体的・精神的な能力は大きくなり、次第に普通の人には成し得ないようなこともなし得るようになります。それも徐々になので、大きく動揺することもなく、静かな心で受け入れながら。ですから上級者になる頃には、最初の頃に持っていたわかりやすい「エゴ(他人との比較、優越感や劣等感、自信の有無、喜怒哀楽の感情)」がかなり薄れて、八支則の4段階目以降、エネルギーのコントロール、感覚の制御、集中力、瞑想などの実践が「アーサナの実践を通して」いつの間にか自然と理解できるようになっているのです。そうでなければ上級シリーズの実践はできないはずです。

ちなみに、元体操選手や運動能力が一般的でない人は、難しい上級レベルのアーサナができるケースが多いですが、そこにヨガ的な精神が備わっているかどうかが重要です。本人もそれが普通の人より簡単にできてしまうことで逆にエゴが強くなってしまうなど逆効果になってしまうこともあり、ヨガの効果や恩恵が受けづらく、内面の変化について判断がしにくいので、注意が必要です。

エネルギーの上昇は脳や神経系を刺激する

サマーディの状態になっている時、身体はどういう状態になっているのでしょうか。

ある文献では、サマーディの身体の状態を「自己が消え全てが一体となり恍惚感に包まれる」と表現していますが、一般の人にとってはなんだか怪しいスピリチュアルなもの、という印象を与えます。
ヨガの実践によって体内にエネルギーが作られ、それが骨盤底から頭頂に向かって流れだし、その間にある7つのチャクラを1つずつ開いていきます。開く方法は様々で、アーサナのほかに、呼吸法や瞑想、チャンティングなど色々なことをしながら、最後に頭頂のチャクラが開きます。

その際、脳のある部分が刺激を受けて、脳内に様々な物質を分泌させるため、サマーディ=恍惚感、神秘体験、オーガズムと表現されるような状態になります。

しかし、上記のような状態は、単なる生理現象でしかありません。同じような物質(麻薬によるもの)を脳に与えれば、同じような身体の反応が起こることもわかっていますし、五感を通して神経を刺激して操作することもできるようです。

日々の実践による積み重ねがなければサマーディではない

肉体も精神も鍛えられていない人が、麻薬や科学的な操作を使って脳がサマーディのような状態になったら、それを自分には何か特別な能力が目覚めた、覚醒したと勘違いしたり、その心地よさをまた味わいたいと執着するようになります。そして心が完全に囚われてしまうと破滅します。(数十年前の新興宗教によるテロ事件を参照)

それは本当の「サマーディ=心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態」とはかけ離れたものだから当然です。

ですが、精神と肉体を長年のヨガの実践(アーサナだけではなく、ヤマ、ニヤマを守り、エネルギーのコントロール、集中の実践も含む)を通して鍛え、様々な経験をし、知識を得、自分でサマーディの状態を作り出すことが出来るほどの修練者なら、サマーディの状態になっても、それが何ということもないと知っているので、自然なこととして受け流し、修行を続けることができるのです。

ヨガの目的は、「どんなことが起きても常に物事を冷静に客観的に観察できるようになるため」なので、たとえ、サマーディに至ったとしても関係なく、修行を続ける、ただそれだけです。
そのように生きる人の人生は、幸せでないわけがない。と、私なんかは思うのですが、みなさんはいかがですか?

その他の参考書

瞑想修行10日間(in ヴィパッサナー瞑想センター)の話

気づき・洞察の「ヴィパッサナー瞑想」とは


2013年2月、タイ北部のチェンマイでタイ式マッサージの勉強をしたことがあります。
(現在は、ほとんど施術をする機会もないのですが・・・)
私の持っているタイ式マッサージのテキストに、セラピストがマッサージを施す前の心の準備として行っている瞑想法が掲載されています。
それが気づきの瞑想「ヴィパッサナー」です。
 
私は当時、瞑想自体、具体的にどのようにすればよいのか、どのくらいの効果があるのかも知らず、ほとんど経験がありませんでした。
ある時、その気づきの瞑想「ヴィパッサナー」の実践法を教えてくれる瞑想センターが日本にある、と知人から聞きました。
ヴィパッサナー瞑想法は私の大好きなゴータマ・ブッダが実際に修行していたものだというのを聞いて、飛びついたのです。
教えてくれた知人も実際に「10日間コース」を受けており、非常に良かったとのことだったので早速申し込みをしました(3か月前から予約ができますが、すぐにキャンセル待ちになるほど人気があるセンターです。)。

気になる方は、webサイトをご覧ください。https://www.jp.dhamma.org/ja/

そして、念願叶って、2013年5月末から12日間京都の山の方にある瞑想センターへ行っておりました。
 

ヴィパッサナー瞑想法とは(ヴィパッサナー協会の資料から抜粋)

『ヴィパッサナーはインドにおける最も古い瞑想法のひとつです。長く人類の間で失われていましたが、2500年以上前に、ゴータマ・ブッダによって再発見されました。「ヴィパッサナー」とは、物事をあるがままに見ることを意味します。それは自己観察による自己浄化のプロセスです。まず、心を集中するために自然な息を観察します。そして鋭く研ぎすました意識を持って、心と体の変化するという性質を観察することへと進み、無常、苦悩、無我、という普遍的な真実を経験します。この直接の経験による真実の実現が、浄化のプロセスです。この道(ダンマ)は全て、普遍的な問題のための普遍的な解決法であり、いかなる組織的な宗教や宗派とも関係ありません。この理由から、この瞑想法は人種や階級や宗教と矛盾することなく、誰でも、いつでも、どこにでも自由に実践でき、また全ての人々に等しく有益であることが分かっています。』

  • 盲目的信心に基づく儀礼や儀式ではありません。
  • 知的な、あるいは哲学的な娯楽ではありません。
  • 静養、休暇、社交の機会ではありません。
  • 日常生活の大変さからの逃避ではありません。
  • 苦悩を根絶する技です。
  • 落ち着いてバランスの取れたやり方で緊張や問題に直面することを可能にする心の浄化法です。
  • 社会に役立つために使うことのできる生きる技です。

 
私は、実践法を習う以前から、ブッダ関連の本を読みあさっていたので、ブッダが解く真理や自然の摂理、起こる問題の全てが自分の内側にあること、人はどう生きれば良いのかという知識はありました。
その知識だけでも、自分の中の問題を自分の力で解決できたりと、実生活にかなりの変化がありました。ですが、知識だけあってもダメです。
ヨガがそうであるように、やはり実践をしなければ、突発的な何かが起きた時にうまく対処できないのです。
泳ぐ方法を知っていても、実際に泳ぐ練習をしなければ泳げないのと一緒です。
 

アニッチャ(無常)の理解の上で完璧な平静さを保つ

 
これだけでは、なんのこっちゃ分からないと思います。でもこれがヴィパッサナー瞑想の真髄です。
よくある例を使って、説明してみます。
 
(例)「粗雑で大きな音を嫌悪している人が、それを耳にすると怒りが湧く」という無意識の反応パターン

【 法則 】
瞑想実践前・・・「粗雑な音」→「嫌いな音」→「イライラ」
瞑想実践後・・・「粗雑な音」→「”嫌いな音”だと嫌悪感を抱いている自分」を観察→「怒りが消える」


これと瞑想がどのように結びついているかというと、こうです。
瞑想は目を閉じて同じ姿勢で長時間座ります。
30分もすれば、股関節から足をもぎ取られるような痛みと、どうにかなりそうな足の痺れなどの肉体的苦痛を感じます。
しかし、それでも動かずにあくまで平静にその感覚を観察し続けなければいけません。全身の神経を全身の感覚に集中させて、微かな感覚も、分かりやすい激しい感覚すべて同等にとらえるのです。
すべてのものは常に移り変わっている、生まれては消えていく「無常」を理解して完璧な平静を保ち観察し続けます。
そして、心に浮かんだ様々な妄想、想像、記憶、アイデア全てについても、肉体的感覚と同様に、あくまで平静に観察をし続けるのです。
「私は今、妄想をしている。集中できなくなっている。痛いと感じている。早く終わって欲しいと思っている。」というふうに。
その訓練を続けていると、4日目にはほとんどの生徒が1時間ずっと動かずに座っていられるようになります。そして最終日までには、微かな感覚と激しい感覚が混ざり合い、全身均一な感覚に包まれます
 
まずは、自分の体におけるどんな感覚も同一と捉え、そこに何の感情も結び付けない練習をすることで、身の回りに起こるどんな出来事も(嬉しいことも悲しいことも)、単なる事象としてそこに感情を結び付けずに、平静に判断・行動できるようになるという論理がそこにあるわけです。
 
とはいえ、これはそう簡単にできることではありません。
瞑想を毎日の習慣にして、集中力や洞察力を鍛えていかなければならないのです。
実は、アシュタンガヨガの実践の中で、「瞑想」というのは、上級者レベルに達して初めて実践を許されるほど難しいものです。
アシュタンガヨガの上級者レベルというのは、世界的にみてもそう簡単には辿り着けない段階です。
そこに至った人たちは、瞑想修行に打ち込める集中力と心と身体の強さを持っている人たちです。
そうでない人たちには、理解できない領域であるし、理解しているつもり、やってるつもりになって、さらに、できていると勘違いをして、おかしな方向に行ってしまったり、頑張ってやっても効果はなく、継続できずに終わる・・・というのが目に見えています。
 
ですから、瞑想云々、洞察力がどうの、という話は、私たちのような初級〜中級レベルの実践者にはまだ早い訳です。
 
最近それをつくづく感じています。
私にはまだ早い・・・と。
 
ですが、だからこそ、アシュタンガヨガの練習に打ち込める訳で、今はとにかく目の前にある課題に集中して、一生懸命日々練習をしていこう!と思うのです。

daily practice 「なぜ毎日練習」しなければいけないのか

アシュタンガヨガを始めると、そのうち「daily practice」という言葉を耳にするようになります。今回は、そのことについてお話ししたいと思います。

daily practice(毎日練習)とは何か

そのまんまですが、毎日アーサナの実践を行うことです。最初のうちは、毎日フルプラクティス(先生からここまでと指示されたアーサナまでを行う練習)とはいかないまでも、太陽礼拝だけとかスタンディングまでとか、マットの上に座って呼吸だけ行うというのでもいいのです。そこから少しずつ進展して、しっかりと効果を得られる練習が徐々にできるようになっていきます。

ヨガの目的ってなあに?

馬の軛(くびき)を操るように、ヨガの実践を通して自分の心と体を自由にコントロールできるようになることですよね。

秤のポーズ utplutihi ウップルティヒ

感情に振り回されず、起きる出来事に客観的冷静に判断・行動できれば、様々なトラブルを避けられ、心も体も安定して落ち着いていられます。

では、「起きる出来事に客観的冷静に判断」というのは、どうやってするのでしょうか?

例えば、何か自分が嫌だな〜、と感じるような出来事が起きた時に、「怒っちゃダメダメ!我慢我慢!」と怒りを抑える・・・のではありません。考え方としては、「この出来事も感情も、いずれは通り過ぎていくもの」という風に捉えて、そこにいつまでも執着しない、という感じです。

そうすれば、その怒りに任せてその対象を攻撃することもありません。(これを「良いパターン」と名付けます。)

逆に、攻撃すれば、その時はスッキリしたような気がしますが、心は決して晴れません。それどころか、何度も繰り返し思い出して、怒りの煩悩を積み重ね続けることになります。(これは「悪いパターン」

「良いパターン」を何度も繰り返すことで、自分が「怒り」を発生させる原因に対する反応もどんどん小さくなっていき、いずれ、「怒り」自体発生しなくなるというのです。でも、これを実際にやろうとしても、そんなに簡単なことではありません。

頭で考えるのではなく、身体を使って練習する

ヨガの実践の内容として、日常生活を整えるための「ヤマ(禁戒)」「二ヤマ(勧戒)」の遵守や、アーサナ(ポーズ)の実践があります。(呼吸法や瞑想などはアーサナの実践で心身が強く安定した者のみが行える)

ヨガ初級者はまずこの最初の3つの実践を行なうことになっています。特にアーサナの実践はとても大切で、自分の心身を使って、自分のことを観察し、知り、気づき、変化する、というのを繰り返し行います。体はどんどん健康になり、強くて安定したものになり、心も変化していきます。そのスピードは人によって違いますが、実戦を続けている人なら必ず、誰でも、変化します。

ただし、たまにしかやらないと、すぐに体は元に戻ってしまいます。せっかく変化や効果があっても、戻ってしまうなんて勿体無いですよね?

それに、毎日練習をしていると、「今日は調子が良かった」とか「できないことができた」というような嬉しいこともあれば、「昨日できたのに今日はできなかった」「きつくて体が動かなかった」と、モヤモヤする・・といった変化がとてもわかりやすいですが、時々しかやっていないと、些細な変化には気づきにくいです。気づきや変化があると、やる気も出てさらに練習しようという気にもなりますよね。

「観察・気づき・変化」のループが日常生活に影響する

これを繰り返し続けていると、日常生活にもとてもいい影響があります。

「臨時収入が入った!!と、浮かれて、大きな買い物をしてしまい、給料日までギリギリ生活・・・」「嫌なことがあって、自棄食い、自棄飲みして、悲惨なことに・・・」といった一時の感情に振り回されて、自制心を失い、後悔するような行動を取ることはありませんか。

アーサナの実践中に、自分にとって壁だった難しいアーサナができるようになった!嬉しい!と浮かれて、自慢げな心が膨らむ。そして自分が周囲にどう思われているか気になって気になって仕方がなくなる。練習に集中できない。そこになんだか嫌な自分を発見する。客観的に観察してみると、その自慢げな感情も鎮静して萎む。ということを繰り返していると、日常生活においても、自然と客観的に判断する良い癖がつくので、浮かれたり、怒ったりして失敗する、というようなことがなくなります。

ちなみに、このような理屈を知ると「真理」を理解したような気になりますが、実際に心と体を使って練習をし、自ら体験しなければ、本当に理解していることにはならないし、良い癖として身に付かないんですよね。

逆にその真理を理解していなかったとしても、練習を毎日繰り返すことは、心と体をコントロールするトレーニングをしているのであって、自分の生活に実際に役立てることはできるんです。

意識できるようになるまで時間がかかるもの

さて、みなさんは毎日ヨガの本来の目的「自分の心と体を自由にコントロールできるようになること」を意識しながら、練習をしているでしょうか?
初級者から中級者の場合、それを意識しながら練習をしている人は、ほとんどいないと思います。

初級者から中級者は、「もっとできるようになりたい」「体を強くしたい」「気持ちがいい」という、単純な欲求が原動力となっていて、それが強ければ強いほど、毎日のように練習をします。そして上級者になれば、今度は、その欲求(エゴ)を手放し、さらに内観を重視する練習を自然とするようになります。

長い長い道のりです。でもそういうものだと思ってください。早ければいいというものではありません。むしろたっぷりと時間をかけて、自分の心身を、絶対に揺るがない強固なものに鍛えていきましょう。

自然の摂理・法則に従う生き方

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今から10年以上前の話ですが、ハワイやヨガやサーフィンに出会った頃、自分は自然の中の一部であるのだなあという実感を持つようになりました。それから、これまで色々とありまして、不自然な生き方をすることになったり・・・もあったのですが、結局はゼロに自分を戻し、もう一度原点に帰って生き直そうと決心したのは、やはりヨガという考え方が既に自分の中にあったからなのかもしれません。

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「日の出とともに活動をはじめ、日の入りとともに身体を休めること。自然の法則に従って生きていれば、間違いを起こすことはない。お前はお天道様に恥じることのない生き方をしているか?」といういつかの父の言葉は、その頃の私の”迷う心”を鋭く突いたのですが、そういったタイムリーに自分に刺さる言葉たちが、当時の私を本来とおる道へと戻してくれたのかなと思うのです。

タイミングってあるんですよね。嘘をついたり、ごまかしたりして生きていたらそのタイミングに気づかない。そういうときの目は濁り、耳は遠く、勘は鈍くなっている。聞く耳を持たない、、という表現がありますが、人の言葉に耳を傾けられない時の心は、常に怒りの感情がメラメラ燃えていて何に対しても反発している。そんな苦しくて仕方がない窒息状態でいったい何ができるの?という感じです。

私はその時、藁にも縋る想いで父の言葉に耳を傾けたから、自分を全て受け入れることができたのかもしれません。

認めてからは、色々なことが自分の思うように運んでいきました。それは、周りに動かされているというよりは、自らそうしているという実感がとてもありました。それは、スムーズに目的地へ行く道が見えていて、しっかりと自分のペースで自分の足で歩いているという実感です。(もちろん、いろいろな方の力添えあってのことです。)

今まで、そんな生き方をしてこなかった私にとっては、それがとても衝撃的な変化でした。ですが、産まれてからずっとその”道”が見えている人も世の中にはいます。そういう人は生まれながらにして、本来の人の生き方を知っている人なのかもしれません。私は、そのことに気づくのに人生の半分近くを使い、たくさんの人たちを悩ませ苦しませ、同じくらい傷ついて、漸う・・・ということなのでしょう。

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“自業自得”

結果には必ず原因があり、自ら行った善悪の行いの報いは必ず自分が受けることになるという仏教用語です。

私が蒔いた種は、いたるところで芽を出しています。良い芽は大切に育て、悪い芽は早目に摘む。良い種をたくさん蒔いて、悪い種は蒔かないように努力をする。悪い芽は見つけたらすぐに摘み取れるように常に心をパトロールしておく。

自然の法則に従って生きるというのは、簡単に言うとそういう生き方なのではないかと私は思っています。

ヨガの八支則の中のヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)では、そういう生き方のための具体的な心構えが示されています。

そういったものを参考にしたり、実践しようと試みるだけでも何か発見があるかもしれませんね。