ヨギー、特にアシュタンギーには是非いつか読んでもらいたい聖典「バガヴァッド・ギーター」とは、どんな物語なのか、一体どんなことをどんなふうに多くの人々に伝えようとしているのか、ということを、とってもわかりやすく解説してくれている上村勝彦さんの著書「バガヴァッド・ギーターの世界」を使って、紹介しています。
をまだ読んでいない方は、そちらからご覧ください。
そもそもインドでは、良い行為を行えば良い結果を生み、悪い行為を行えば悪い結果を生む、と考えられてきました。これを「カルマ」(漢訳仏典では「業(ごう)」)といいます。初期仏教など、修行に励むために一般の社会を捨てることを勧めている宗教もあったようですが、ヒンドゥー教や「ギーター」においては、社会的な義務を果たすこと、全うすることを重要視しています。
しかしながら、社会的義務を果たすことによって、罪悪を犯すことになってしまう人も、中にはいます。
アルジュナのような戦士、軍人などは、戦いの相手を殺すことになるからです。
さて、自分は一体どうすれば良いのかを問う戦士アルジュナに、クリシュナはこう答えます。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。
この世の全てを、平等のものと見れば、行為の結果に縛られず、苦しむことがないというのです。
ギーターの中で非常に有名な句があります。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機にしてはいけない。また、無為に執着してはならない。
無為に執着する、とは、例えば修行のために社会生活を捨てる、などの行為を指しています。
ヒンドゥー教の考え方として、人は「学生期(勉学に励む)」、「家長期(家庭を持つ)」、「林住期(森に隠遁)」、「遊行期(聖地巡礼)」という「四住期」を経ることが理想的な生涯とされるからです。
さて、「成功すれば果報がある」「失敗すれば悪い結果を招く」とあれこれ考えすぎて仕事に失敗してしまうことは、私たちの日常においてよくあることです。
後先のことを何も考えずその行為そのものに集中していれば、とても良い結果を得られるということも。
しかし、たとえそれを頭で理解していても、実際に結果を考えずに行為に専念するというのは、なかなか難しいというのも事実です。
では、どうすれば良いか?
クリシュナは、アルジュナに「ヨーガに拠り所を求めるべき」と説きます。
これまで、ヨガや瞑想を実践してこられた方は、このことがとてもよくわかると思います。
例えば、このポーズができた!と喜ぶ。このポーズができない・・・と落ち込む。
このポーズがきつい!嫌だ。このポーズは楽だから好き。先生が見ているから気合が入る。誰も見ていないから楽をしよう。
という風に、自分の行為や起こる現象に対して一喜一憂したり心を揺らすのではなく、どんな状況であっても常に一定の安定した心を保つ練習、それがヨガの実践ですよね。
つまり、私たちは、このヨガの実践において、平等の境地を目指しているわけですが、それは一体何のためか。
それは、不安定な心身に振り回されて苦しまないためです。
些細なことから大きな出来事に到るまで、何が起きても平静に、対処し、解決していく力を育てているのです。
執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは、平等の境地であると言われる。
「知性(ブッディ)の確立」=ヨーガの完成
クリシュナは、平等の境地に至る人は「知性(ブッディ)」が確立した人であり、心の最も真相の部分の働きにおいてもなお動じることはなく、結果に束縛されないと言います。
アルジュナは、それは具体的にどんな人なのか?クリシュナに問います。どのように語り、坐し、歩むのか、特徴を知りたい。と。
不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡智が確立した聖者と言われる。
すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。
亀が頭や手足を全て収めるように感官の対象から感官を全て収める時、その人の智慧は確立している。
(人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が生まれる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生じる。怒りから、迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生じる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。)
人は誰でも、ヨーガのもとに、行動・行為することで、平等の境地に至り、知性を輝かせることができるのだと、だから、何も考えずにやりなさい、ということなのです。
では、一体どのようにして、ヨーガのもとに行動・行為に専心すれば良いのか、その具体的な方法について、次回は書きたいと思います。