先日、かねてより、念願だった自然農塾見学会に参加してきました。福岡自然農塾の見学会は、定期的に行われており、一番メインになっている見学会が、2ヶ月ごとに糸島の農園で実施されています。
自然農ってなに?!
自然農とは、耕さない(不起耕)、虫や草を敵としない、農薬肥料を用いない、という三原則に則り、自然の営みに沿った栽培を行います。使う道具は、ノコガマ、スコップ、鍬のみ。草刈りは必要に応じて行いますが、畑に草が生えていることは土の豊かさを現しており、そこに虫たちが活き活きと生きている様子を自然のあるがままの姿とする、「自然に応じる」農法です。
“自然”という言葉は、“自(おの)ずから然(しか)らしむる”ということを示しています。 何が自ずから然らしむるのかと言えば、いのちがいのち“自ずから然らしむる”です。 いのちというものに、自然という性質があるということです。
それぞれのいのち自ずから絶妙に然らしむる絶妙の存在であり営みであります。 そのようになっている自然界で、そうしかならない自然なるいのちでありますゆえに、 その営みに添い応じ従う他になく、添い応じ従い任せることによって、最善の結果をもたらしてくれることになります。 自然に添い応じるのが最善、それぞれのいのちに従い任せるのが最善です。
自然農は、こうした自然本来である自然なるいのちの営みに添い、応じ、従い、任せる農です。
(福岡自然農塾「自然農の理」より抜粋)
自然農は「生き方」そのもの
自然農は、本来そうあるはずの生き方そのものだと思います。
宇宙の真理、自然の摂理に従い、個々に応じるやり方で、、というのは、実はヨガでも瞑想でも全く同じ考え方なんですよね。
ちなみに個々に応じるというのは、例えば、稲刈りの後の草刈りは、夏草は自然と枯れていくのでそのままでよく、冬草はこれから育てる小麦と競合するので丁寧に刈っておく、というようなこと。
闇雲にただ刈れば良いというものではないのです。(自然農では、刈った草もどこにも持ち出さず、作物の周りに満遍なく散らしておきます。それがやがて土へ還り栄養となります。草は敵ではない。)
昔、植物を育てる時「土の表面が乾いたら、水やりをする」と書いてあるので、その通りにしていたのに、根腐れしてしまった・・ということがよくありました。
私は植物を育てるのがとても苦手でした。今考えると、実は土の表面は乾いていたけど、少し下の根のあたりは湿り気たっぷりで水は必要ないのに、じゃんじゃんあげていたわけです。
何の不思議もない、無知な私が、そうなるようにしていただけです。
かつての私は、植物そのもののことも、その植物がおかれている環境や気候、状況をちゃんとわかっておらず(無知)、ただ、こうするのだという慣例や決まりの通りにすればコトはうまくいくのだと思い込んでいたのですね。
でも今は、もう何年も植物が生きられる世話ができるようになりました。土だけではなく、植物の葉っぱや茎など全体を見て、水が必要そうだなと思えばあげるし、不要ならあげない。そういう判断が自然とできるようになっています。
ヨガも瞑想も自然農も同じ
ヨガや瞑想、そして自然農に触れながら日々を過ごしていれば自然と、観察力、洞察力、真理眼のようなものが養われ磨かれていくような気がしています。
本来私たちは当然そういうものであったはずなのだけど、文明の発達によって退化しているということなのです。
縄文・弥生時代の農耕民族なんかは、当たり前のように自然の摂理に従って、自然農で行なっている営みを、ごく自然にしていたのです。「自然農」は、とっても深く、核心に迫る。
そういうものを、家族みんなで共有できることが、この上なく幸せなのです。
参考にしている自然農関連の文献